所縁ゆかり深き偉人


越後長岡の歴史を紡いだ偉大なる先人たち。その歴史の一部にはここ蒼柴神社がありました。

長岡城図
長岡城図
悠久山招魂社の昔の写真
かつての悠久山招魂社

河井継之助

維新の平和解決を望んだ幕末の風雲児

河井継之助

戊辰戦争において、越後長岡藩を率いて新政府軍に徹底抗戦した河井継之助かわいつぎのすけ。しかし彼が目指したのは『武装中立』の平和的な解決であった。

 

新政府軍との小千谷会談が決裂すると、敵軍2万人に対し同盟軍8千人での過酷な戦いを強いられる。落城した長岡城を一度奪還するなどの奮闘を見せるも、負傷し会津領へ撤退。

 

八十里越の峠の先、会津領塩沢村(現在の福島県只見町)にて命を落とした。

悠久山招魂社

総督河井継之助、大隊長山本帯刀やまもとたてわき以下三百九柱の霊などをお祀りする悠久山招魂社。境内には2人の墓碑も並んでいる。

河井継之助の石像は通称"泥かぶり石"と呼ばれる貴重な石から彫刻されており、「負ければ賊軍」の世の習わしに屈せざるを得なかった継之助とどこか似た哀愁を感じる。


山本五十六

元帥げんすい海軍大将

第26、27代連合艦隊司令長官を務めた山本五十六やまもといそろくは、古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町付近)で旧長岡藩士・高野家の六男として生まれる。

 

後に旧長岡藩家老・山本家を継ぐが、これは河井継之助の右腕山本帯刀の御家であった。時を経て、長岡藩の精神を継いだ勇士が戦の中核を担うのは数奇な運命である。

悠久山招魂社の向かって左手には、山本五十六より預り受けた魚雷と機雷が並んでいる。二重反転スクリューや、装甲の穴からは内部構造も少し見ることができる。

※危険ですので絶対に手を触れないでください


野本恭八郎(互尊翁)

長岡市中央図書館の前身を築く

野本互尊翁

 

野本恭八郎のもときょうはちろうの生まれである刈羽群横沢村(現在の長岡市小国町)の庄屋・山口家は、日本石油創設の家系である。野本家を継いだ後も国立銀行取締役(北越銀行)や新潟県会議員などを務め、長岡の経済や政治の発展に大きく貢献した。

 

長岡市最初の公立図書館となる互尊ごそん文庫(後の長岡市中央図書館)を設立したのも大きな功績である。互尊独尊ごそんどくそんの思想を説いたことから、互尊翁などとも称された。

 

三祖廟さんそびょうは皇紀2600年を記念して互尊翁が建立を計画していた社である。現在の長岡市福住の一画に場所を整えていたが、翁は完成を見ることなくご逝去され、互尊翁が設立した公益財団法人日本互尊社が遺志を継いだ。

 

来る皇紀2600年(昭和15年)に三祖廟を建立。現在に至り、令和の御代替わりと悠久山公園造営100年を記念して令和2年に蒼柴神社に寄贈・遷座。

 

翁が最初の建立地を山の浄土をもって整地されたことから、神域である悠久山が遷座地に選ばれたことは良き巡り合わせと言えよう。

互尊と書かれた碑

互尊独尊とは、自らを尊び、そしてお互いを尊ぶという思想である。野本恭八郎は「金子清邦や河井継之助のような偉大な先人がいたから、互尊精神が生まれたのだ」と後に語った。

 

莫大な私財をなげうって地域の教育や経済に貢献するという姿勢は、まさに互尊の至る境地であり、米百俵の精神を体現した偉大な人物である。